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キム・ ボクトゥクさんの100歳の誕生祝いが終わる頃、お祝いを準備した「日本軍慰安婦被害者と共にする統営(トンヨン)・巨済(コジェ)市民の集い」のソン・ドジャ代表が「祭りに参加した祝い客に一言お願いします」と言うと、キムさんは患者用ベッドに横たわり苦しそうな息で一言ずつ休みながら応えた。
ソン代表が「今年の願いは何ですか」と尋ねた。キムさんは何も言わなかった。ただ涙が両頬の深い皺に沿って流れた。
日帝強制占領期間(日本の植民地時代)に日本軍慰安婦として連れて行かれたと韓国政府に申告したハルモニ(おばあさん)239人のうち、15日現在で199人が日本の謝罪を聞けずにすでに亡くな、生存者は40人に過ぎない。生存者の中でチョン・ボクスさん(102)に次いで2番目に高齢のキム・ ボクトゥクさんは、1918年1月14日(陰暦12月17日)生まれで、14日に数えで100歳になった。
この日のキム・ ボクトゥクさんの100歳の誕生祝いが慶尚南道統営市の慶南道立統営老人専門病院の講堂で開かれた。キムさんはアルツハイマー性痴呆症で2013年11月6日からこの病院に入院している。
「私が死ぬ前に日本から悪かったと謝罪を受けられれば他には願いはありません。それでも何か願いがあるとすれば、来世には花嫁の冠をかぶって嫁入りし、他の人と同じような暮らしをしてみたい」
キム・ ボクトゥクさんは数年前までは口癖のようにこのように話した。だが、今は親しい数人だけかろうじて見分けられ、少し対話するだけだ。百寿の行事会場でも話はほとんどしなく、表情や首を振ったりすることで気持ちを僅かに表わすだけだった。統営高と統営女子高の生徒たちが、ハルモニの前でサムルノリ、踊り、歌などを披露すると、そっと笑ったり、時々涙を拭うだけだった。愛唱曲「島の村の先生」が流れても反応は見せなかった。
キム・ ボクトゥクさんの甥の孫娘のキム・ウンエさん(25)は「朝、誕生日のお祝いに行くために化粧をされたので、私が親指を上げて『おばあちゃん、きれいですよ』と言ったところ、何も言わずに明るく笑われました」と話した。キム・ ボクトゥクさんの看病人は「今朝は鯰のスープを召し上がりました。お食事はアワビ粥でも鶏の丸焼きでも、ピザでも、何でも好き嫌いなくよく召し上がるけれど、この頃はコロッケパンが特にお気に入りです」と話した。
キム・ ボクトゥクさんは、黒い服を着た人に恐怖を感じ、時々発作症状を見せたりもする。ソン・ドジャ代表は「日本軍慰安婦として連れて行かれた時の悪夢が蘇るせいのようだ。それで、制服を着た生徒たちが団体で病気見舞いに来ると、次は明るい色の服を着て来てほしいとお願いする」と話した。
キムさんは1994年、韓国政府に日本軍「慰安婦」被害者登録をした以後、日本の謝罪を受けるために積極的に活動した。2007年に名古屋、2011年には大阪で開かれた証言集会に参加して、自身が体験した日本軍「慰安婦」被害経験を証言し、2010年には日本の衆議院議員会館前で示威活動も行った。キムさんはまた、2012年に統営女子高奨学金、2013年には慶尚南道の日本軍慰安婦歴史館建設基金として各2000万ウォン(約200万円)ずつを寄付した。これは生涯貯めた全財産だ。
キムさんの厚志を賛えて慶尚南道教育庁は2013年、彼女の一代記をまとめた本「私を忘れないでください」を出し、道内のすべての小中高校に歴史教材として提供した。慶尚南道教育庁はこの本の日本語版と英語版も出し、日本と米国にも送った。同年、統営の南望山(ナムマンサン)公園にはキムさんを象徴する少女像「正義の碑」が設置された。
ソン・ドジャ代表は「キム・ ボクトゥクさんは、その存在自身が人権と女性尊厳の象徴だ。ところが、韓国政府が2015年12月28日に慰安婦被害者問題を事実上10億円で売り払うという、話にもならない内容で日本政府と合意した事実をお聞きになれば、どれほど悔しがるか」と話した。
キムさんは慶尚南道統営の出身で、22歳だった1939年に巨済の長承浦(チャンスンポ)にある叔母の家に行こうと埠頭に行ったところを、工場に就職させるという徴用募集者の話にだまされて釜山に行った。1男2女の長女である彼女は、両親と幼い妹のために自身がお金を稼がなければならないと思ったという。キムさんの甥のキム・チャンウク氏は「昔、叔母は日帝強制占領期間に体験したことをほとんど話されなかった。それで私は叔母が日本軍『慰安婦』被害者登録をするまでは、日本に徴用で行って来られたものと理解していた」と話した。
だが、釜山でキムさんを乗せた船が到着したところは中国の大連だった。結局、彼女は日本軍の移動に従い中国からフィリピンまで言われるままに、フミコという名前で日本軍「慰安婦」生活を強要され、1945年の解放直後に自由になり故郷に帰った。